[編集] 歴史研究
歴史研究を政治理論に活用したモンテスキュー
歴史に根本法則を見つけようとしたヴォルテール18世紀が「非歴史的」な世紀であったというロマン主義の主張は正しいものではない。啓蒙思想は諸国家の歴史を等価値にある種の法則性のなかに還元しようとしたが、それは啓蒙主義の「非歴史」性の証明にはならない。なによりギリシャ・ローマの古典古代に対するこの時代の関心の高さは逆に啓蒙主義の「歴史性」を裏付けている。(詳細は啓蒙主義の歴史記述を参照)
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歴史学において啓蒙主義的転回を実現したのはフランスのベールである。彼は『歴史批評辞典』を著し、事実的なものをそれ自体として愛好する立場を示した。このことは中世的な神学的歴史観が神の意思や客観事実から個々の具体的事実へと考察を始めていたのに対し、具体的事実をそれ自体として尊重する立場を示した。
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モンテスキューはベールの立場から一歩進めて、歴史的事象から理念型を取り出し、その現実的な社会科学への応用を実践した。『法の精神』における政体論は歴史的に存在する政体を構造的に分析して構築された理念型に基づいている。これらの概念は歴史的政体の共通性を抜き出して一般化した抽象概念ではなく、歴史の研究を通じて得られたそれらの本質である。これらの政体概念は普遍性を備えており、現実社会の評価に適用可能であるとされた。しかしモンテスキューは同時に、このような理性の産物である政体概念をつねに現実の社会状況にさらして批判的に見ることを決して忘れなかった。彼独自の「中庸」な視点はモンテスキューがいまだ啓蒙主義的に徹底されていないことをあらわすとともに、彼の学問的価値が啓蒙主義を超えていたことを示している。
ヴォルテールは歴史研究に自然科学的手法をより厳密に適用しようとした。彼は『風俗試論』のなかで、個々の歴史的事件から帰納的に導かれるなんらかの根本原則を想定し、それを把握することにつとめた。このことは表面上従来の神学的歴史観への接近を示しているように思われるが、神学的歴史観が目的因の実現過程として歴史を示したのに対し、彼はそのようなものに代わる何らかの心理学的原因を求めようとしたと思われる。彼は神学的歴史観の代表であるボシュエの『世界史論』を激賞しつつ、歴史的事件に神学的な意味づけをしていることが誤りだとして「絶えず純金に贋の宝石を嵌め込んでいる」と批判した。『ローマ帝国衰亡史』を著したギボンもヴォルテールの影響を受けている。
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ヒュームはヴォルテールに見られた蒙主義的傾向を、自身の理性批判的精神によって批判した。ヒュームは歴史的世界の根本原則のようなものを否定した。
ドイツのヘルダーは抽象的な歴史原則を最終的に否定し、啓蒙主義的な歴史観に終止符を打った。彼はライプニッツのモナド論に影響されて、個々の歴史的事実を球になぞらえ、球が重心を持つように、個々の歴史的事実も核心を持つと説いた。
[編集] 経済思想
富の増産が生産により行われると述べたケネー
経済学を独立させたリカード啓蒙主義の具体的成果で最大のもののひとつである百科全書派による百科事典『百科全書』が、「科学と技術と技法の理性的な辞書」と自己を定義づけていることは、産業的なもの、経済的なものに対する啓蒙主義の関心の高さを物語っている。理性の性善説に基づく功利主義的な人間観は経済思想において大きな進歩をもたらした。
フランスのケネーは経済活動の考察に理性主義的な根本法則を設定した。彼は『経済表』において、財貨の再生産過程を図式化し、富は商業によって得られるという伝統的な重商主義的立場を批判して、富は生産により本当の意味で増産されることを示した。彼のいう生産は農業を念頭においており、その意味で重農主義と呼ばれる。重農主義という名称はデュポンの著作『重農主義』に基づいている。
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ケネーのいう富が概念として公共的な利益をいうのではなく、個人的な富としての私的な利益にあることはいうまでもない。ケネーは私的な利益の増産を約束したが、それは公的な利益につながるのであろうか。同時代の思想家であるエルヴェシウスは彼の政治理論のなかで漠然と公共の利益と私的利益が立法機関によって調整されなければならないとしたが、この問題は政治理論の問題にとどまらず、経済理論もこれに立ち向かわなければならない運命にあることは明白であった。
アダム・スミスは『諸国民の富』のなかでケネーの理論に基づくような経済世界をそれ自体で完結させ、このような社会には「神の見えざる手」というような予定調和的性格を設定した。この社会の運営主体としての統治(すなわち政府)を設定した。スミスにおいては政府は財貨を生み出す経済主体とは扱われず、このような政府の公共性を支える思想としてはヒューム的な共感が考えられている。またスミスは産業革命以前の時代に生きていたにも関わらず、工業化がもたらす分業とその合理性を指摘している。
スミスを継承したリカードは『経済学および課税の原理』を著し、スミスの理論を発展させ、最終的に公権力が排除された経済社会を設定し、公権力と経済社会を二元的に分離したことにより、経済社会の法則性に立脚した古典経済学を確立した。また生産物の価値が希少性とそれに費やされた労働によるとし、労働価値を根拠づけた。
このような古典経済学は生産の要素として、土地と資本、労働を措定し、それぞれ地主、資本家、労働者という階級を設定していくことになる。ここでは啓蒙思想において顕著であった平等主義はもはや完全に消滅し、万人に平等な事実として階級制度の必然性を提示した。
[編集] 解放思想
食卓を囲んで向かい合うメンデルスゾーン(左)とレッシング(右)啓蒙思想の理性主義は人種問題や人間の未開状態に対する問題といったような差別的な問題をはぐくんだ一方、平等主義的な解放思想を生んだ。
レッシングは戯曲『賢者ナータン』において、ユダヤ人のナータンを主人公としてその美徳を強調し、偏見からの脱却を説いた。レッシングと親交のあったユダヤ人の哲学者メンデルスゾーンはユダヤ教とキリスト教の信仰の違いが人間的価値に差異をもたらすものではないとしてユダヤ人の法的解放を訴える一方、閉鎖的なユダヤ教の側にも改革の必要性を感じ、ユダヤ教内部での啓蒙活動である「ハスカラー」を展開した。
フランス革命においては1791年、ユダヤ人に即時無条件で市民権が認められ、その法的解放がおこなわれた。しかし、のちにナポレオンによりユダヤ人の権利は制限されている。
このことに関連して宗教あるいは道徳における解放思想としてはヴォルフの演説「シナ人の実践的哲学について」をあげることができる。当時の中国人の道徳を理性主義的な立場から十分倫理的価値が認められるものとし、キリスト教思想なくしても倫理思想を成立させることは可能だとした。この講演は当時の敬虔的な神学者から激しく非難され、彼はハレ大学の教職を辞さねばならなかった。
しかし同じく啓蒙主義に立脚するカントの『宗教論』においてはやや異なった見解が述べられている。彼は内面的な「見えざる教会」こそが真に道徳的価値のある宗教であり、外面的な律法を重視するユダヤ教は「見える教会」であるとして道徳的価値において劣っているとした。彼においては啓蒙主義的な道徳はキリスト教的な道徳と同質なものであった。
イギリスのウィルストンクラフトは『女性の権利の擁護』を著した。彼女はこの著作の中で教育制度の改革によって女性の地位向上が図られるべきだと述べた。フランスの劇作家グージュはフランス人権宣言が男性の権利のみを擁護したにすぎないとして批判した。
黒人奴隷の問題も啓蒙思想の批判に晒された。ウィルストンクラフトやグージュは黒人奴隷と女性問題を関連のあるものとして扱っているし、ヨーロッパやアメリカでも反奴隷制協会といったような組織がつくられた。とはいえ、黒人奴隷問題や女性解放運動は啓蒙思想において主流を占めることはなかった。
[編集] 啓蒙思想の展開
啓蒙思想は17世紀イギリスではじまった。
フリードリヒ2世 (プロイセン王)とフリードリヒ・ヴィルヘルム3世
一般に、プロイセンのフリードリヒ大王は啓蒙専制君主の典型とされる。この絵では、甥の息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の前で書き物をしているが、壁に掛けられたポートレートは文通相手であった啓蒙思想家、ヴォルテールのものであるヴォルテールの「哲学書簡」やモンテスキューの「法の精神」により、啓蒙主義の考え方はフランスに渡り、後にフランスの絶対王政を批判するのに用いられた。 ハプスブルク家のマリア・テレジア女帝、プロイセン王国のフリードリヒ大王、ロシア帝国女帝エカチェリーナ2世などが実践している。
18世紀に入り、当時フランスやイギリスに比べ遅れをとっていたドイツにおいてもこの考えを普及し、トマジウス、メンデルスゾーンやヴォルフやゴットシェートらを輩出。
ヴォルフは理性と啓示(神の教え)に矛盾がないことを説き、人々に人間としての理性でもって見る考え方を主張。ゴットシェートは、この影響を受け、ヴォルフのように啓示と理性を並存させるのではなく、啓示の内容は理性へと還元され、理性によって解明されうると考えた。